未来の予想なんて見るべきでない理由

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未来予想という言葉はとても馴染み深いと思う

偉人は10年後を見越しているというし、今日では様々な予想が飛び交っている

ニュースの記事を堂々と占めていることもあるし、需要もでかいのだろう

私はある意味ではそういった予想は意味のあるものだと思う

未来予想とはその時の興味を強く反映する傾向がある

つまり、2019年に10年後の2029年の予想をしたとすると、その予想は2019年に注目されている分野が影響している、というよりイコールではないかと思われるくらい同じだ

いまならAI・IoT・VR・量子コンピュータなどである

そして2029年はこれらの分野がさらに発達して我々の生活は…とか言い出すのである

ここで「卵が先か、鶏が先か」という問題にとらわれる

我々はいまなぜ、AIに注目しているのだろうか?

答えは二択である

「いまAIは発達しつつある分野だから(そして、10年後もAIが伸びる)」か「10年後にAIが伸びるから、いまAIに注目する」

よくよく考えるとこの2つともに「将来性」という言葉が含まれていることに気づく

後者はいうまでもないが、前者について少し書こうと思う

「発達」する分野の定義はそもそもなんだろうか?

例えば、いまなら20年前のワープロよりももっと高性能なワープロを作ることが出来る(要は、発達させることができるということ)

しかし、誰も作ろうとはしない

なぜか?

将来性がないからである

我々は一つ前提として、なにかを作り始める前に「それが完成した後どうなるか」を想像する

端的に言えば、「ウケがいいか・悪いか」「広まるか・広まらないか」そして、「将来性があるか・ないか」である

つまり結局の所、卵が先だろうが鶏が先だろうが、なにかをつくるとき少なからず「未来も見ている」ということがわかる

さて、まずいっておきたいのは、未来予想ほど退屈なものはないということだ

かつて、昭和の人々が様々な10年後・100年後を予想しているがどれも的はずれなものばかりだ

でも、我々は彼らとまったく変わらないということに我々は気づかない

ここである人はいうのだ

「AIは別だ!!」 「人工知能はどう考えても画期的だ」 「ワープロと一緒にしてはいけない」

まさに和文タイプライターが廃れて、ワープロに移行しつつある時代と似ている

時代が違うだけで他は何も変わらない

とはいえ、ここで私がいいたいのは、AIなんてこの先世の中から廃れるという意味ではない

「流行るかもしれないし流行らないかもしれない」

ただそれだけだ

ご存知だろうか? かつてAIブームというのが2度起こったことに

第一次AIブームは1950〜60年に、コンピュータができたことで人間を超える人工知能が発達すると思われていた

第二次AIブームは、「エキスパートシステム」という専門家の知識をコンピュータに教え込みことで現実の複雑な問題を人工知能に解かせることを試みたシステムが考案され、流行り再びとなった

そしていまは、第三次AIブームである

あれは別で今度はこれこれこうだから、なんて風に過去を神的目線で見つめることは容易だし、いまを論理的に語ることも誰だって出来る

でも歴史は正直だ

我々が昭和の未来予想をあざ笑うように、我々も未来人に笑われていることに気づくべきではないだろうか

話をもどそう

未来予想は「いま」何に注目がいっているか? を知る意味では非常に有効だ

しかし予想としては、コイントスで表が出る確率よりも低くて精度が悪い

ひとつ言えるのは「そうならない確率のほうが高い」ということだ

人間そっくりのロボットも、ホログラムみたいなタブレットも、空飛ぶ車も、なんとなく白っぽい(近未来的な)街もたぶんやってはこない

なにか別のものがやってくるだけだ

じゃあいっそのこと、「今だけはとりあえず激流行りしている分野!!」とかに変えてしまったほうがいいのではないだろうか

というわけで、マジメなお話はオワリ!!

きいてくれてありがとう

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